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智と慧の漢訳

一般に般若は「智慧」と訳されるが、厳密には中国に翻訳される場合、それは「慧」と訳され、「智」とは区別されていた。

道倫(どうりん)の『瑜伽師地論記』 に「梵にいう般若とは、これに名けて慧となす。当に知るべし、第六度なり。梵にいう若那とは、これに名けて智となす。当に知るべし、第十度なり」とあって、般若を慧、闍那(若那、jJaana)を智と、それぞれ訳出して、その意味の区別を考えていたことがわかる。

このことは慧琳(えりん)の『音義』 に「般羅若、正しく鉢羅枳嬢(はっらきじょう)という。唐に慧といい、或は智慧という」といっている点からも明らかであり、般若は慧と訳され、十波羅蜜の第六波羅蜜、智は闍那で第十波羅蜜を、それぞれ示していた。

この慧と智の区別について、慧遠は『大乗義章』の中で、「智」を照見、「慧」を解了とし、「智」は一般に世間で真理といわれるものを知ること、「慧」は出世間的な最も高く勝れた第一義の事実を照見し、それに体達するものであるとする。

さらに『華厳経』の註釈である『華厳経探玄記』を書いた賢首(げんじゅ)大師法蔵(643年 - 712年)によれば、智を第十度、慧を第六度にあてて、この中の「智」は因果、順逆、染浄などの差別を決断する作用であるといって「智」を決断作用とし、「慧」は諸法の仮実、体性の有無などを照達することであるとして、それを疑心を断じ、しかも事物そのものを体験的に知ることであるとしている。

このように智 (jJaana) と慧 (prajJaa) を区別することは、仏教のインドにおける教えの中に、すでに説かれていたことでもあった。たとえば、仏教教学の基礎であるといわれているアビダルマでは「慧」 (prajJaa) を心の作用として、それは見られる対象を分別し、それが何であるかを決定し、疑心を断じて、そのものを本当に理解する心の働きであるとして、それを「簡択」(けんちゃく、簡はえらぶこと・択はきまりをつけること)の作用をもつ心のはたらきとする。この慧によって決断することを「智」 (jJaana) という。

『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

智と慧の区別についても考えてみました。

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2009年6月16日 23:35に投稿されたエントリーのページです。

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